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鳥取地方裁判所 昭和63年(ワ)260号 判決 1999年12月21日

原告 圓山壽雄

<他1名>

原告ら訴訟代理人弁護士 松本光寿

同 小笠豊

被告 鳥取県

右代表者県知事 片山善博

右訴訟代理人弁護士 森脇正

主文

一  被告は、原告らそれぞれに対し、金一六四四万六八七五円及びこれに対する昭和六二年九月二七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、これを二分し、その一を被告の負担とし、その余を原告らの負担とする。

四  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一請求

被告は、原告らそれぞれに対し、金三三二〇万円及びこれに対する昭和六二年九月二七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

本件は、亡圓山直樹(以下「亡直樹」という。)が被告の設置し管理する鳥取県立中央病院(以下「中央病院」という。)において入院して治療中に死亡したことについて、亡直樹の両親でありその相続人である原告らが、亡直樹は慢性腎不全のため中央病院において人生透析療法として腹膜透析の一方法である持続的外来式腹膜透析(連続携帯式腹膜透析ともいう。以下「CAPD」という。)による治療を受けていたところ、中央病院の勤務医によってなされていた右CAPDの治療の過程において過誤があったために腹膜炎が発症して入院を余儀なくされた上、右腹膜炎が硬化性被嚢性腹膜炎(以下「SEP」という。)を発症又は進行させたことによって死亡するに至ったとして、被告に対し、医療契約上の債務不履行責任に基づく損害の賠償又は右勤務医による不法行為についての使用者責任としての損害の賠償を選択的に請求した事案である(なお、原告らは、いずれの責任に基づく損害賠償請求についてもその附帯請求にかかる遅延損害金の起算日を亡直樹が死亡した昭和六二年九月二七日としている。)。

一  前提事実(なお、証拠により認定した事実については、その認定に用いた証拠(ただし、書証の枝番号は省略。以下同じ。)を適宜掲記した。)

1  当事者

(一) 原告圓山壽雄は、亡直樹の父であり、原告圓山千里(以下「原告千里」という。)は、亡直樹の母である。

亡直樹は、昭和三二年五月一七日に原告らの間の第三子三男として生まれ、鳥取市内の県立高校を卒業後、東京で服飾関係の仕事に就いていたが、その後帰省して原告ら及び長兄、次兄とともに家業である電気商を営んでいたものであるが、慢性腎不全のため昭和五五年七月から中央病院において診察・治療を受けるようになり、昭和五八年一一月からはCAPD治療を受けていたが、最終的には、中央病院に入院中の昭和六二年九月二七日に三〇歳で死亡した。

(二) 被告は、中央病院を設置して管理し、同病院において医療業務を行っている。

吉野保之医師(以下「吉野医師」又は「吉野」という。)は、中央病院外科(人工透析室)の勤務医であり、昭和五五年七月から昭和六二年一月まで亡直樹の主治医であるとともに、亡直樹が死亡するまで同人に対するCAPD治療を含む人工透析治療を担当していた。

2  CAPDについて

(一) CAPDとは、慢性腎不全治療のための人工透析療法の一種である腹膜透析(腹腔内に存在する腹膜の半透過性を利用して透析を行う血液浄化法。なお、人工透析療法の双璧である血液透析(HD)は、血液を体外に設置された透析器を通して循環させ、人工膜を介して行われる血液浄化法である。)の一方法で、古典的な腹膜透析の方法(間欠的腹膜透析といい、IPDともいう。)が、腹腔内にカテーテルを留置し、これを介して一・五リットルから二リットルの透析液を注入し、三〇分から六〇分程度貯留させた後に排出するという過程を繰り返すというものであって、透析に要する時間が長くなり、また注入と排出に特別な装置が必要であるために医療機関において実施しなければならないという欠点があったが、その点を改良し、患者自身が家庭でも行えるようにしたのがCAPDである。

すなわち、CAPDは、その透析原理や透析液の注入、貯留及び排出を繰り返す点では、古典的な腹膜透析と同じであるが、一日に四回(通常は、起床時、昼食時、夕食時及び就寝前の四回)程度のサイクルで腹腔内に注入されていた透析液の排出と新しい透析液の再注入を行うことにより、透析液の腹腔内貯留時間を約六時間程度に延長しており、しかも、透析液の注入は、一リットルから二リットルの透析液が入ったバッグを高所につるすことによって、また逆にその排出は、注入により空になったバッグを低所に垂らすことによって、それぞれ患者自身が行うものであって、透析液の注入及び排出の際に特別の装置を必要としないというものであり、透析液の排出と再注入においては、右の手順で排出された透析液(以下「排液」という。)の入ったバッグをカテーテルから外して新しい透析液の入ったバッグをカテーテルに装着するというバッグの交換(以下「バッグ交換」という。)をするだけであり、それ以外の時間である透析液の腹腔内貯留時間(約六時間程度)には、空になったバッグを腰に巻いて、自由に活動することができるという特徴を有する。

(二) また、腹腔内に留置され身体に外科的に装着固定される右カテーテルの構造としては、カテーテルの途中に、腹腔内又は皮下にカテーテルを固定するための「カフ」と称する綿状の部分があり、このうち、腹腔内に存在するものを「第一(下位)カフ」、皮下に存在する部分を「第二(上位)カフ」、第一カフと第二カフとの間のことを「トンネル部」、そしてカテーテルが身体外に出ている部分を「カテーテル出口部」という。

CAPDは、右(一)のような利点があるが、右のとおり、体内腔と外部とがカテーテルを介して通交しているという構造上、合併症として感染による腹膜炎を起こす可能性がある。そして、右のような腹膜炎を総称して一般的に「CAPD腹膜炎」というが、CAPD腹膜炎の早期発見には、バッグ交換時において排液の混濁の有無を確認することが重要であるとされており、そのため、CAPDの治療を受けている患者に対しては、バッグ交換時に排液の混濁があれば直ちに病院に連絡するように指導がなされている。

また、CAPD腹膜炎の感染については、その感染経路により分類されているが、そのうち、カテーテルと身体の間(隙間)を感染経路とするのが「傍カテーテル感染」、カテーテル内腔を感染経路とするのが「経カテーテル感染」とされている。そして、経カテーテル感染の原因としては、バッグ交換時の汚染が最も多く、そのうち黄色ブドウ球菌ないし表皮ブドウ球菌による汚染の割合が最も多い。

3  亡直樹の病歴及び治療歴等の概略について

(一) 中央病院での初診(昭和五五年七月)までの病歴と治療歴の概略

亡直樹は、高校在学中の昭和五〇年前後ころ、尿に蛋白が出たことから鳥取市立病院に入院して検査を受けた結果、腎炎に罹患していたことが判明した。

昭和五五年五月ころ、食欲不振、頭痛、嘔気、下肢倦怠感、口内出血、鼻出血、浮腫等が出現し、同月二二日に精密検査のため慶応大学付属病院に入院し、慢性腎不全により、同月二七日から、右病院において、血液透析による治療を受けるようになり、六月二四日からは、東京の目黒駅前クリニックにおいて、血液透析を受けるようになったが、帰省することになったため、右クリニックの河野医師の紹介で、中央病院において治療を受けることになった。

(二) 中央病院での初診(昭和五五年七月)以降における病歴と治療歴の概略

(1) 昭和五五年七月から昭和五八年一一月一四日

右河野医師の紹介により、昭和五五年七月一八日から、中央病院(以下特に記載しない場合は、同病院での治療である。)において、慢性腎不全のための血液透析治療を受けることになり、以後昭和五八年一一月一四日まで、血液透析のために定期的に通院していたが、血液透析の際に強度の頭痛や嘔気がみられるといういわゆる血液透析困難症や不均衡症候群に悩まされていた。また、高血圧の症状もみられ、降圧剤が投与されていた。

その間、昭和五六年四月二一日から二四日まで胸痛及び呼吸困難のために入院し、七月一五日には発熱があり、八月二五日まで入院した。また、九月一〇日には、発熱のために東京女子医大付属病院に入院した。

昭和五七年一月二七日には、血液透析中に空気が流入し、咳も出たことから経過観察のため翌日まで入院し、六月一五日には、数日前から発熱や強度の腹痛がみられるようになったために入院してその日に開腹手術をしたところ、手術所見としては腸管の癒着はないものの大網と腹壁に癒着がみられ、病理検査における組織学的所見としては増殖型の結核性腹膜炎であることが判明し、同月二五日まで入院した。その後、腎臓結核、精嚢結核、前立腺結核を併発した。

また、昭和五八年八月五日には、下血して多発性十二指腸潰瘍と診断され、同月二七日まで入院した。

(2) 昭和五八年一一月一八日から同年一二月

一一月一八日に消化管出血のために一日だけ緊急入院し、同月二八日には、反復する下血と吐血のため再び入院し、出血性十二指腸潰瘍と診断され、即日胃の四分の三を切除する手術を実施したが、その後も下血と吐血が続き、また高血圧症状も続いたため、入院を経続することになった。

そして、右一一月一八日の入院の時は、止血が困難で血液透析では対応できなかったため、CAPDを実施することになった。

その後、間欠的な腹痛、出血の症状がみられたため、いったんは間欠的腹膜透析(IPD)にしていたが、一二月二六日には、再びCAPDに戻した。

その後は、腹痛、下痢、下血、嘔気が慢性的にみられ、CAPDによる排液中に浮遊物がみられることもあった。

(3) 昭和五九年

昭和五九年になっても入院治療が行われたが、引き続き、腹痛、下痢、下血、嘔気が慢性的にみられ、また、一月二六日と三月一四日には血性の排液がみられた。

六月一六日には、それまで入院した上で実施されていたCAPDが在宅でも可能であると判断されたため、退院した。

その後も、発熱、腹痛、下痢、頭痛、浮腫、高血圧が慢性的にみられ、またCAPDによる排液中に浮遊物がみられることもあった。

(4) 昭和六〇年

通年で、発熱、腹痛、下痢、頭痛、浮腫、高血圧が慢性的にみられ、また、三月二七日には血性の排液がみられた。

八月八日から同月一九日まで消化管出血のため入院し、また、その後は、腹痛、浮腫、高血圧が続いたため、九月二七日以降、血液中の過剰な水分を除去する限外濾過法(血液透析とは異なり、透析液を使用しない。以下「ECUM」という。)を散発的に実施したり、CAPDの透析液を一・五リットルから二リットルへ増量したりした。

(5) 昭和六一年

通年で、発熱、腹痛、下痢、頭痛、浮腫、高血圧(なお、高血圧に対しては、昭和五五年以降、降圧剤が投与されてきたが、一〇月二一日以降は、降圧剤のうちのβブロッカー剤も投与されるようになった。)がみられた。

また、九月三日、カテーテル出口部に発赤、排膿、圧痛がみられ、その排膿の培養検査を実施した結果、同月五日には、これらは緑膿菌による感染症(以下「本件カテーテル感染症」という。)であることが判明したことから、吉野医師において抗生物質の投与等を行って治療したが、右感染症は軽快、悪化を繰り返していた。

そして、一一月一九日に、吉野医師は、本件カテーテル感染症により腹膜炎が発症するのを防ぐため、カテーテル出口部から皮膚を切開して膿を出し、カテーテルの第二カフを露出させてこれを切除し、カテーテル出口部の位置を変えるという処置(以下「本件カテーテル処置」という。)を、透析室内に設置されている通称CAPD室と呼ばれている診療指導室(以下「CAPD室」という。)において行った。

その後、奥村都子看護婦(以下「奥村看護婦」又は「奥村」という。)においてカテーテルから透析液の漏出が生じたことを認めたため、奥村看護婦は、吉野医師に指示を求めたところ、同医師から応急措置として医療用接着剤であるアロンアルファでその損傷部分を修復するように指示されたので、これに従って修復した。

そして、その後、右カテーテルの修復部からの液漏れが止まったので、吉野医師は亡直樹をそのまま帰宅させたが、同日夜から翌二〇日の昼にかけて、亡直樹は腹痛を訴え始めた。

一一月二〇日、午後〇時四〇分ころ、亡直樹は、強度の腹痛を訴えて来院し、鎮痛剤等の投与を受け、いったんは帰宅したものの、その後、CAPDによる排液の混濁を発見したため、午後四時一五分ころ、再度来院して吉野医師の診察を受けたところ、腹膜炎(以下「本件腹膜炎」という。)であると診断され、午後七時ころ入院した。

そして、右二〇日に亡直樹が持参した排液の培養検査を実施した結果、同月二二日には、本件腹膜炎は、緑膿菌によるものと判明し、吉野医師は、その治療として、腹部洗浄や抗生物質投与を行い、また一一月二七日にはカテーテルの交換を行ったが、本件腹膜炎はなかなか治癒しなかった。また、一二月ころより腸閉塞症状も現れ始めていた。

(6) 昭和六二年

本件腹膜炎が治癒しないため、一月一四日にCAPD治療を断念してカテーテルを抜去し、通常の血液透析に移行したところ、同月二六日には本件腹膜炎が治癒した。

しかしながら、腸閉塞症状は続いていたことから、断食、中心静脈栄養(以下「IVH」という。)及び胃ゾンデやデニスチューブ挿入という保存的な治療を一月から七月まで内科の医師によって行った。そのため、亡直樹は、一月三一日から内科へ転科となったが、腸閉塞症状は軽快せず、外科的措置としての手術を検討するために、三月三一日からは外科へ紹介という形となった。

その後、七月四日にいったん退院したが、七月一八日に再度入院し、同月三一日には、消化管の穿孔の可能性があると診断されたため、岸清志医師(以下「岸医師」又は「岸」という。)が執刀して緊急手術が実施されたが、その後の治療のかいもなく、九月二七日、急性心不全を直接死因として、亡直樹は死亡した。

二  争点

1  亡直樹の死因(急性心不全の原因はSEPか)

2  本件腹膜炎のSEPに対する影響の有無

3  本件腹膜炎の原因

4  本件カテーテル処置に関する過失の有無

5  本件腹膜炎の治療に関する過失の有無

6  本件カテーテル感染症の治療に関する過失の有無

7  右4ないし6のいずれかの過失が認められる場合、その過失と亡直樹の入院(昭和六一年一一月二〇日以降)及び死亡との因果関係の有無

8  被告の負担すべき損害の額

第三争点についての当事者の主張の要旨

一  亡直樹の死因(争点1)

1  原告ら

亡直樹は、昭和六二年四月ころには明確にSEPになったものであるが、SEP自体、現時点においても有効な治療法が存在しない予後不良の疾患であることなどから、昭和六二年二月以降の病状の経過については、その後どのような治療処置をとっても、ほぼ同様な経過しかたどれず、亡直樹の死亡の結果は免れ得なかったものと考えられる。

したがって、死亡診断書には、直接の死因は急性心不全、その原因は汎発性腹膜炎、さらにその原因は慢性腎不全となっているが、SEPが、亡直樹の死亡の真の原因と考えるべきである。

2  被告

原告は因果関係をCAPDによるSEPのみで論じているが、本件は結核性腹膜炎も起こしており、結核性腹膜炎の沈静した後にSEPと同じような、慢性包嚢性腹膜炎と呼ばれる病態を起こすのであり、これを無視した原告の主張は失当であって、亡直樹は、SEPのみならず慢性包嚢性腹膜炎をも原因として死亡したと考えるべきである。

二  本件腹膜炎のSEPに対する影響の有無(争点2)

1  原告ら

本件腹膜炎が発症したこと及びそれが遷延したことが、SEPを発症又は進行させた最大の原因である。

2  被告

腹膜炎がSEPの原因となるかどうかは不明であるから、本件腹膜炎がSEPの原因となったとはいえないし、仮に腹膜炎がSEPの原因となり得るとしても、本件腹膜炎の発症時期よりも前の時期にSEPが発症しているから、本件腹膜炎の発症又は遷延が原因となってSEPが発症したとはいえない。

三  本件腹膜炎発症の原因(争点3)

1  原告ら

本件カテーテル処置における吉野医師の過失が、本件腹膜炎発症の直接的原因である。

被告は、本件カテーテル処置が原因で本件腹膜炎が発症したのであれば、排液の混濁が右処置から二四時間後に起こることはあり得ないと主張しているが、腹膜炎を発症すれば即時に排液が混濁するというわけでは必ずしもなく、排液の混濁が認められなくても、細菌培養の結果、菌が検出されるということはあり得るのである。

2  被告

本件カテーテル処置が原因で本件腹膜炎が発症したのであれば、本件カテーテル処置後数時間以内に排液の混濁が認められるはずであるところ、本件で排液の混濁が認められたのは右処置の二四時間後であるから、本件カテーテル処置を本件腹膜炎の原因と考えることはできない。

むしろ、亡直樹の既往歴や一一月一九日の腹痛の症状が間欠的なものであったことからすると、右腹痛は、腹膜炎ではなく、SEPあるいは慢性包嚢性腹膜炎の症状としての腸閉塞症状によるものであったと考えられる。仮にそうでないとしても、昭和六一年九月から本件カテーテル感染症を遷延させていたことに照らすと、本件腹膜炎は、本件カテーテル処置を直接の原因として発症したものではなく、バッグ交換時の汚染による経カテーテル感染又は傍カテーテル感染により発症した可能性が高い。

四  本件カテーテル処置(昭和六一年一一月一九日)に関する吉野医師の過失の有無(争点4)

1  原告ら

以下の点につき、吉野医師には過失がある。

(一) 本件カテーテル処置を清潔な手術室でなく、CAPD室で行った。

(二) その際、不必要にカフ部分を削って、カテーテルを損傷した。

(三) カテーテルを損傷した場合、直ちにカテーテル交換術を実施すべきであったのに、損傷部分をアロンアルファで修復するにとどめ、かつ、右修復後に透析液を注入したため、カテーテル内面の細菌を腹腔内に流し込む結果となった。

2  被告

(一) 本件カテーテル処置は、化膿した部位を切開して排膿することが目的であるから、元来不潔なものであるし、また、その処置自体比較的簡単なものであったから、CAPD室で行っても何ら問題でない。

(二) カフ部分を削る際にカテーテルの表層の一部が削られることは一般的にあり得ることである。

(三) 通常の患者の場合であれば、緊急に新しいカテーテルに交換する処置をとったかもしれないが、亡直樹の場合には、腹腔内の癒着が高度であることが分かっており、また、腸閉塞の症状が頻回に現れていて、抜去すれば新しいカテーテルを挿入することが不可能になる危険があったため、カテーテルの交換には慎重にならざるを得なかった。そこで、応急措置としてアロンアルファによる処置を行い、翌日、損傷部分を切断してカテーテルを再接合したものである。

五  本件腹膜炎の治療(昭和六一年一一月二〇日から昭和六二年一月二六日まで)に関する吉野医師の過失の有無(争点5)

1  原告ら

以下の点につき、吉野医師には過失がある。

(一) 昭和六一年一一月二〇日午後〇時四〇分に亡直樹を診察した時点で腹膜炎の発症を疑い、直ちに入院させて腹膜炎の治療を開始すべきであったのに、腹膜炎発症の疑いを持たず、いったん亡直樹を帰宅させたためにこれに対する治療が遅れた。

(二) 亡直樹が入院した一一月二〇日の時点で、最初にカテーテルを交換すべきであったのに、同月二七日までこれを実施せず、カテーテルの交換が遅れた。

また、本件では昭和六二年一月一四日に最終的にカテーテルが抜去されているが、本件のように遷延する腹膜炎においては、より早期にカテーテル抜去が実施されるべきであった。

(三) 入院後の腹腔内の洗浄が不十分であった。

(四) 昭和六一年一一月二〇日の入院後から昭和六二年一月二六日までの間、緑膿菌に対し有効な抗生物質を使用しなかった。

2  被告

(一) 昭和六一年一一月二〇日午後〇時四〇分の時点では、排液の混濁が認められなかったため、腹膜炎と診断しなかった。前記三2のとおり、右受診時の腹痛は、SEP又は慢性包嚢性腹膜炎によるものと考えられる。

(二) 合併症のない通常の患者であれば、難治性腹膜炎の治療としてカテーテルの抜去も考えられるが、亡直樹の場合、既往症等に照らし、カテーテルを早期に抜去することには踏み切れなかったものである。

(三) 腹腔内洗浄は、メリットよりもデメリットの方が大きいため、現在では行われていないが、当時としては十分洗浄した。

(四) 緑膿菌に対して有効な抗生物質を投与していた。

六  本件カテーテル感染症の治療(昭和六一年九月三日から同年一一月一八日まで)に関する吉野医師の過失の有無(争点6)

1  原告ら

以下の点につき、吉野医師には過失がある。

(一) カテーテル出口部の感染症に対する一般的な治療法としては、①アンルーフィングによる排膿(アンルーフィングとは感染部を被覆している皮膚を切開ないし切除することであり、昭和六一年一一月一九日に実施された本件カテーテル処置はおおむねこれに該当する。)、②カテーテル出口部の変更、③カテーテルの交換という三つの方法があるところ、本件カテーテル感染症に対しては、アンルーフィングをより早期に実施すべきであったし、また、感染が遷延していたのであるから、カテーテル出口部の変更やカテーテルの交換をより早期に実施すべきであったのに、これを怠った。

(二) 本件カテーテル感染症の起炎菌が緑膿菌と特定されたにもかかわらず、これに対し有効な抗生物質を使用しなかった。

2  被告

(一) 亡直樹の既往症等からして、カテーテルの交換を行うことは困難と判断し、実施しなかった。

(二) 本件は、カテーテルのカフ部の感染症に基づく出口部感染と判断されるから、抗生物質投与による治療は期待できないものであった。

七  前記四ないし六のいずれかの過失が認められる場合、その過失と亡直樹の入院(昭和六一年一一月二〇日以降)及びその死亡との因果関係の有無(争点7)

原告ら

本件腹膜炎によってSEPが発症ないし進行している以上、吉野医師の過失と亡直樹の入院及び死亡との間に因果関係が認められる。

八  被告の負担すべき損害の額(争点8)

原告らの主張する損害額は、次の1ないし3の合計六六四〇万円(各自三三二〇万円)である。

1  原告らが二分の一ずつ相続した亡直樹の休業損害(左記(一))及びその逸失利益(左記(二))並びに原告らがそれぞれ支出した墳墓・葬祭費(左記(三))の合計(四〇〇七万二一二五円)の内金四〇〇〇万円(各自二〇〇〇万円)

(一) 亡直樹の休業損害

亡直樹は、家業の電気商を手伝っていたが、本件腹膜炎発症のため、昭和六一年一一月二〇日から昭和六二年九月二七日までの一〇か月以上にわたって入院をほぼ継続し、その間全く仕事ができなかったのであって、亡直樹の月収は二九万円程度であったから、右の間の休業損害は少なくとも二九〇万円を下らない。

(二) 亡直樹の逸失利益

亡直樹(昭和三二年五月一七日生)は、死亡当時三〇歳であり、三〇歳男子の平均月収二九万二三〇〇円程度の収入があったと考えられるから、就労可能年数を三七年、中間利息控除係数を新ホフマン係数の二〇・六二五、生酒費控除を五〇パーセントとしてその逸失利益を計算すると三六一七万二一二五円となる。

(三) 墳墓・葬祭費

原告らは、墳墓・葬祭費として少なくとも各自五〇万円ずつ合計一〇〇万円を支出した。

2  原告らが二分の一ずつ相続した亡直樹の慰謝料及び原告ら固有の慰謝料の合計二〇〇〇万円(各自一〇〇〇万円)

亡直樹は、長期入院後、開腹した創部を閉じることができないまま二か月も過ごした後に死亡するといった悲惨な経過をたどった。そして亡直樹やその家族に対する吉野医師の対応も、人間としての温かみや誠意を欠いたものであった。

3  弁護士費用の合計六四〇万円(各自三二〇万円)

第四証拠《省略》

第五争点に対する当裁判所の判断

一  亡直樹の死因(争点1)について

1  SEPについて

《証拠省略》によれば、SEPに関する医学的知見について、次のような事実を認めることができる。

(一) SEPの病態について

SEPは、CAPD治療における重篤な合併症であると位置付けられている。SEPの病相としては、臨床診断的には、瀰漫(一面にみなぎること)性に肥厚した腹膜の広範な癒着により、持続的、間欠的あるいは反復的にイレウス(腸閉塞・腸内容の腸管内通過障害)症状を呈する症候群であり、形態学的には、腹膜肥厚又は硬化性腹膜炎がみられ、病理組織学的には、腹膜線維症又は腹膜硬化症がみられる。また、SEPは、腹膜の線維化又は肥厚による腹膜機能(濾過機能及び除水能)の低下などを伴う慢性の経過を経た上で発症するものとされる。そして、SEPは、腹膜、腸管壁などが硬化、肥厚し、さらに肥厚した大網などにより消化管全体が一塊となって繭状に包み込まれるという肉眼的所見がみられ、そのために、右臨床的症状であるイレウス症状としての嘔気、嘔吐、腹痛が持続的、間欠的あるいは反復的に発生するというものであって、右イレウス症状は増悪と寛解を繰り返しつつ慢性の経過をとって進行するため、栄養障害、るいそう(極度にやせること)、下痢、便秘、発熱、血性排液、限局性又は瀰漫性の腹水貯留、腸管ぜん動音低下、腹部における塊状物触知などの症状が出現する場合があるなど、多様な症状が認められる病態である(また、腸管内における消化液のうっ滞による内圧の上昇と細菌の増殖、さらに腸管粘膜バリヤーの破綻によって敗血症に至る場合もある。)。

(二) SEPに対する治療法とその予後について

SEPに対する治療法は、CAPDの中止、絶飲絶食を基本とする腸管の安静、IVH、胃ゾンデ挿入による消化管内圧の減圧が検討されており、場合によっては外科的治療やステロイド剤による薬物治療などによる症状改善も検討されているところであるが、治療に対する反応性の相違もあって、有効な治療方法が確立されているとはいえない状況であるため、SEPの発症自体を事前に予防するための方法として、一定条件下における一日除水量が一定量以下となった場合におけるCAPDの中止が検討されている。

このように、SEPの治療法が確立していないため、SEPの予後は極めて悪く、栄養障害状態の進行による全体的身体状態の悪化を基礎として、最終的には死の転帰をとる可能性が高い。なお、SEP患者の生存期間については、統計的なデータはないが、臨床的なケースとしては、四人の患者が二年以内に全員死亡したケースや一人の患者が四年近く生存したケース、などがある。

(三) SEPの原因について

SEPの原因について確定的な医学的解明はなされていないが、腹膜透析期間、高濃度腹膜透析液の使用、腹膜透析液の組成、細菌性腹膜炎の罹患回数、化学薬品や薬剤(降圧剤のうちのβブロッカー剤など)の使用などがSEP発症の因子と考えられている。

すなわち、これらの因子により、腹膜が傷害を受け、又はこれに対して腹膜組織自体が本来有する生理的な修復機能が異常に亢進して腹膜の線維化又は肥厚が進行するものと考えられている。

2  亡直樹の臨床的症状について

前記第二の一の前提事実、《証拠省略》によれば、次の事実を認めることができる。

(一) 昭和五八年一二月ころから、嘔気、嘔吐、腹痛、下痢が間欠的又は反復的、継続的にみられ、昭和五九年六月からは四・二五パーセントCAPD透析液の注入回数を一日一回から一日二回としたものの、遅くとも昭和六〇年九月ころからは、浮腫が強くみられるようになったので、同月二七日以降、血液中の過剰な水分を除去するためにECUMを散発的に併用することになり、さらに、昭和六一年一一月からは四・二五パーセントCAPD透析液の注入回数を一日二回から一日三回とするようになったが、浮腫の症状は完全には改善しなかった。また、昭和六二年四月ころの時点で、るいそうがみられた。

(二) 昭和六二年七月三一日の開腹手術時の肉眼的所見としては、亡直樹の腹膜は、全体的に、肥厚し、かつ黒色ないしネズミ色に変色しており、その小腸の一部は、腸管につながる血管の血栓により血流が途絶えたことが原因とみられる壊死が生じていて、その部分が薄くなって穿孔がみられる箇所もあった。そして、右開腹手術を執刀した岸医師は、右肉眼的所見について、典型的な腹膜炎ではみることができないような程度に肥厚した腹膜であったと評価している。

(三) 鑑定人兼証人寺岡は、昭和六二年三月及び四月に実施された上部消化管ガストログラフィン造影、同年七月の腹部X線写真の各所見によれば、SEPの所見がみられるとして、少なくとも同年三月ころの時点においては、亡直樹がSEPに罹患していたとほぼ断定できる旨鑑定において結論付けるとともに、証言においてもこれと同旨の指摘をしている。一方、証人平野は、その証言において、同年三月の時点よりももっと前の時点において亡直樹がSEPに罹患していたと判断できると指摘している。

3  亡直樹の死因についての検討

(一) 以上の事実関係からすると、亡直樹は遅くとも昭和六二年三月ころ以降はSEPに罹患していたものと認められる。

(二) そして、本件においては、亡直樹が最終的には急性心不全によって死亡したことが認められるものの、亡直樹の死後解剖がなされていないため、亡直樹がいかなる転帰をとって急性心不全により死亡したかということについての具体的かつ詳細な経緯は不明といわざるを得ない。

しかしながら、右1のとおり、SEPの予後は栄養障害から生じる全身状態の低下のために極めて不良であること、また、昭和六二年七月三一日の手術後の経過としては、右手術により縫合した小腸部分が接合せずに化膿して徐々に開口し、腸内容物が漏出して腹膜炎が生じ、出血や十数カ所の穿孔が生じたことなどからすると、亡直樹は、少なくとも、SEPが進行した結果、全身状態が悪化して、最終的には急性心不全によって死亡するに至ったものと推認することができる。

なお、亡直樹の死亡に至る具体的経緯の点について、鑑定人寺岡は、その鑑定書において、手術後の昭和六二年八月六日から七日の間に新たに発生した空腸上部のトライツ靱帯付近の腸瘻(瘻孔の一つ・深部組織あるいは蔵器と外部の間に生じた病的な管状の連絡、皮膚に開口するものを外瘻、体内の臓器や組織と連絡するものを内瘻という。)を原因とする腹膜炎の発生により、敗血症、腹腔内出血を繰り返して死亡したものと指摘し、吉野医師作成の陳述書の中には、亡直樹の肝臓障害、肝硬変により、手術後において肝機能不全となり、黄疸、アンモニア上昇、凝固機能異常から出血を繰り返して死亡したとの記載があるところ、SEPの予後として、右いずれの経過をたどっても死亡に至る可能性があることを否定することはできないが、本件証拠によっては、右のいずれであるのか、あるいはその他の経過をたどったのかを断定することはできない。

(三) ところで、被告は、SEPのほかに、慢性包嚢性腹膜炎が亡直樹の死亡の原因となった旨主張するけれども、慢性包嚢性腹膜炎は結核性腹膜炎の残遺物であると考えられているところ、亡直樹が結核性腹膜炎に罹患したのは、昭和五七年六月のことであり、また、結核菌が亡直樹の体内から検出されたのは、昭和五八年五月が最後であることなどからすると、結核性腹膜炎がSEPの発症に影響を与えることによって間接的に亡直樹の死亡に影響を与えた可能性があることは否定できないとしても、結核性腹膜炎の残遺物としての慢性包嚢性腹膜炎が、SEPとは独立して、かつてこれと併存して、亡直樹の死亡に直接的な影響を与えたものとは認め難く、その他にこれを裏付けるに足りる的確な証拠はない(なお、証人吉野の証言及び同人作成の陳述書の中には、本件は慢性包嚢性腹膜炎であるとの供述ないし記載があるが、右陳述書の他の箇所においては、SEPとは被告の主張する慢性包嚢性腹膜炎であるとの記載もあり、吉野医師の認識としては、慢性包嚢性腹膜炎とSEPは同一の疾病であると考えていたものとも推定されるから、右供述ないし記載部分を被告の右主張の根拠となる証拠であるということはできない。また、被告申請の証人平野の証言や同人作成にかかる「鑑定書」と題する私的鑑定意見書の記載内容を検討しても、亡直樹の死因がSEPとは別の慢性包嚢性腹膜炎であることを裏付けるような部分は見当たらない。)。

二  SEPに対する本件腹膜炎の影響の有無(争点2)について

1  SEPは、前記一1のとおりの病態であるが、《証拠省略》によれば、その症状は、突如として現れるものではなく、前記一1のような各因子による腹膜の細胞の線維化が進展することによる腹膜の肥厚・硬化が徐々に進行していって、最終的にはイレウス症状を主とする前記のような種々の症状が現れるようになること、SEP発症後においてもSEPの進行の過程や階段があること、したがって、SEPの発症の因子として考慮されているものは、発症後のSEPの進行過程における腹膜の肥厚・硬化に対しても影響力を有していること、すなわち、SEPの発症のみならずその進行についてもその因子となり得ることを認めることができる。

そして、前記一1で認定したように、腹膜炎がSEPの原因の一つであると考えられることからすると、本件腹膜炎は、SEPの発症又はその進行について影響を与えたことが推認できる(なお、右認定は、後記八3のとおり、他のSEPの因子であるところのCAPDによる治療期間あるいは亡直樹が過去に罹患した腹膜炎などがSEPの発症又は進行に影響を与えた可能性があることを否定するものではない。)。

したがって、SEPの発症時期が本件腹膜炎の発症時期よりも前であることを前提にして、本件腹膜炎がSEP発症の原因となり得ないという被告の主張は採用できない。

2  また、亡直樹におけるSEPの発症時期の確定については、右1のとおり、SEPが慢性的に段階的な腹膜の線維化・肥厚の進展を経て進行していくものであり、その腹膜の線維化・肥厚の進展については、SEPの発症の前後を問わず、前記の各因子が関与していると考えられる以上、SEPの発症時期の解明が医学的には極めて重要であるとしても、本件腹膜炎がSEPの発症又は進行の原因となったかどうかについて検討するという法的判断においては必要不可欠とまではいえないこと、医学的にも、病理組織学的検査結果がない症例について事後的にSEPの発症時期を確定する基準(あるいは発症と診断すべき基準)が確立されているとはいえず、したがってそのような場合にSEPの発症時期を法的に厳密に確定することは極めて困難であることなどからすると、本件においては、遅くとも亡直樹が死亡するより前の時点(本件では、遅くとも昭和六二年三月ころの時点)でSEPが発症していることが明らかになっていれば十分であるというべきである。

三  本件腹膜炎の原因(争点3)について

1  前記第二の一3(二)(5)、(6)の事実、《証拠省略》によれば、昭和六一年一一月一九日から昭和六二年三月末までの間の亡直樹に対する治療経緯について、次のような事実を認めることができる。

(一) 一一月一九日

吉野医師は、それまでの本件カテーテル感染症の経緯も検討して、第二カフ付近に感染が起こっている可能性があると考え、腹膜炎の発症を防ぐため、同月一四日の時点で同月一九日に本件カテーテル処置を実施することにしていた。そして、一九日午後三時ころ来院した亡直樹を診察したところ、発赤はなく、腫脹や出血もはっきりしなかったものの、排膿が認められたため、予定どおり、本件カテーテル処置を実施することとし、CAPD室において、カテーテル出口部から皮膚を二ないし三センチ切開し、皮膚下にあった第二カフを身体外部に取り出して膿を出した。その際に、吉野医師は、右切開によって外部に露出した第二カフが皮膚に接触すると亡直樹が痛がるであろうと判断し、これをカテーテルから削り取って切除した。

その後、奥村看護婦において、カテーテルに接続チューブ(カテーテルとバッグを接続するチューブ)を接続した上でCAPDの透析液を注入したところ、右カテーテルの第二カフを切除した部分付近に一・五ミリくらいの切れ目があって、そこから透析液がじわじわと漏出していた。そこで、奥村看護婦が電話で吉野医師に指示を求めたところ、同医師は、カテーテル抜去も検討したが、強度の癒着があるため再挿入が困難になるのではないかとの判断から、右切れ目に医療用接着剤でアロンアルファを塗布することを指示した。これを受けて、奥村看護婦は、右切れ目にアロンアルファを塗布して再度透析液の注入をしてみたところ、右切れ目からの漏出は止まった。

ところが、その約一〇分後、今度はカテーテル出口部から透析液が漏れ始めたが、少量であったことから、吉野医師は経過観察をすることにした。また、奥村看護婦は交代時間が過ぎていたので、引継ぎの田中看護婦にこれまでの経緯を申し送りして交代したが、右申し送りを受けた田中看護婦は、念のためアロンアルファを右切れ目に塗布しておいた。

その後、吉野医師は、亡直樹に対し、腹膜炎が発症するかも知れないからバッグの排液が混濁するような場合にはすぐに病院に連絡するように指示して、午後六時か七時ころ亡直樹を帰宅させた。

帰宅した亡直樹は、その夜から強度の腹痛が始まり、その後も腹痛が持続したものの、中央病院に連絡することはしなかった。

(二) 一一月二〇日

亡直樹が午後〇時四〇分ころに次兄と二人で来院したので、吉野医師が診察したところ、亡直樹は強度の腹痛と下痢があったことを訴えており、顔色不良や歩行困難がみられた。また、切開部分の傷は液漏れもなく乾燥していたものの圧痛があり、前日から右傷の痛みが継続しているというような症状がみられたので、吉野医師は、一応の処置として鎮痛剤と安定剤を注射し、整腸剤を投与して帰宅させた。

その後、亡直樹は、午後三時三〇分ころ排液が混濁していることを発見し、中央病院に電話をした上で、午後四時一五分ころ原告千里及び次兄に身体の両側を支えられて再び来院したので、吉野医師が診断したところ、強度の腹痛があり、排液の混濁がみられたため、腹膜炎(本件腹膜炎)と判断し、排液の細菌培養検査を実施するとともに、鎮痛剤及び消炎剤を投与した。

その後、吉野医師は、本件腹膜炎の原因として傍カテーテル感染の有無を調べようと考え、第一カフにまで感染が及んでいるかどうかを確認するために、午後五時二〇分ころ、皮膚を切開してカテーテルの奥の方を確認した上で出口部の位置を変えるという処置を行ってみたが、第一カフにまでは感染が及んでいなかったことが確認された。

そして、午後五時四〇分ころ、腹部洗浄のために抗生物質入りの透析液を注入してすぐに排出し、引き続き午後六時三〇分に抗生物質入りの透析液を注入した。その後、亡直樹は、腹痛が持続していたもののやや軽減し、午後七時に入院するところとなった。

なお、同日、接続チューブを交換するとともに一九日にアロンアルファを塗布したカテーテルの切れ目部分を切除した。

(三) 一一月二一日以降の経過

入院後は、排液の混濁が継続し、腹痛や嘔気、嘔吐が間欠的かつ継続的にみられ、加えて発熱もあったため、数種類の抗生物質や鎮痛剤、安定剤が投与されたり、腹部洗浄が実施されたりしたが、排液の混濁や右症状の改善には至らなかった。一一月二七日には、カテーテル交換の処置が行われ、実施前には強度の癒着のため交換に困難を伴うことが予想されたが、実際にはさほど困難ではなく、約一時間で容易に実施できたものの、状態が好転することはなかった。

また、入院後しばらくして、右嘔気、嘔吐のほかに、下痢や便秘もみられるようになり、当初は経過を観察していたが、昭和六一年一二月ころからこれに対する治療としてIVHや胃ゾンデ、デニスチューブなどが実施されるようになり、昭和六二年一月からは治療方法としての絶食も試みられるようになった。

にもかかわらず、本件腹膜炎が軽快しないので、昭和六二年一月一四日にカテーテルを抜去し、通常の血液透析に移行したところ、一月二六日には本件腹膜炎は治癒した。

一月三一日からは内科医が主治医となり、絶食と絶食解除が繰り返されたが、腸閉塞症状は軽快せず、外科的措置としての手術を検討するために、三月三一日からは外科に紹介という形となり、実質的には転科となった。

2  なお、昭和六一年一一月一九日夜から二〇日昼にかけての亡直樹のバッグ交換については、それが適正な間隔を置いて適正な回数なされていたかどうかについては証拠上判然としない。

すなわち、亡直樹の昭和六一年当時における一日のバッグ交換スケジュールは、在宅のCAPDであるために生活時間の影響も受けて若干の変動はあったものの、大体、午前九時ころから午前一〇時ころに一回、午後一時ころから午後二時ころに一回、午後八時ころから午後九時ころに一回、午前二時ころに一回の合計四回というものであったこと、亡直樹は、バッグ交換については相当気を付けていたことがうかがわれるが、他方で、仕事の関係であらかじめ決めておいた時間に交換できないこともあるとか深夜の交換については睡眠時間中であって寝過ごすこともあるなどと受診時に申述していること、一九日の夜から二〇日の昼にかけては、強く腹痛を訴えており余裕がなかったような様子であったことなどの事情からすると、亡直樹が、一九日の夜から二〇日の昼にかけて、右のようなスケジュールを厳格に守ってバッグ交換をしていたかどうかについては不明といわざるを得ない。

しかしながら、バッグ交換はCAPDに不可欠なものであって、これをしなければ透析が十分に行われなくなり、場合によっては生命に危険が及ぶ可能性があることは亡直樹も十分承知していたはずであるから、亡直樹が、一九日に中央病院で奥村看護婦から透析液の注入を受けてから二〇日の二回目の来院前に電話を病院に入れるまでの間、全くバッグ交換をしなかったという可能性は低いと考えられる。

3  以上について検討するに、昭和六一年九月三日から同年一一月一九日までの間において遷延していた本件カテーテル感染の起炎菌は緑膿菌であり、本件腹膜炎の起炎菌も、右カテーテル感染の起炎菌と同一の緑膿菌であったことは、前記第二の一のとおりであるところ、一一月一九日に、吉野医師が本件カテーテル処置をした際に、カテーテルに損傷が生じて、カテーテル内腔と外部との交通が生じたこと、右カテーテルの損傷は、吉野医師が、本件カテーテル処置における措置として第二カフを削る際に生じたものであること、本件カテーテル処置がなされた一一月一九日の夜から亡直樹は腹痛を訴え始めていること、右腹痛は、翌二〇日に亡直樹が来院するまでの間において軽快したというような形跡は見当たらないこと、昭和五八年一一月一八日から昭和六一年一一月一九日までの間において、亡直樹がバッグ交換における感染を原因として明確に腹膜炎に罹患した形跡は見当たらないこと、バッグ交換時における感染菌として一般的に割合が高いのは、黄色ブドウ球菌ないし表皮ブドウ球菌であること、一一月二〇日になされたカテーテル処置においては、第二カフと第一カフの間や第一カフ付近においてはカテーテル感染が及んでおらず、カテーテルと身体との間からの感染(傍カテーテル感染)は考え難いことなどの事情に照らすと、本件腹膜炎は、本件カテーテル感染症の起炎菌である緑膿菌が、吉野医師の本件カテーテル処置の際に生じたカテーテル損傷部からカテーテル内腔に侵入し、さらに右処置直後に注入されたCAPDの透析液を介して亡直樹の身体に侵入したことにより生じたものであると認めるのが相当である(現に、鑑定人寺岡は、鑑定書において、本件腹膜炎の原因は、カテーテル損傷部より出口部の化膿性感染の起炎菌である緑膿菌が侵入したためと考えるのがもっとも蓋然性が高い旨指摘しており、証人尋問においても、右と同旨の供述をしている。)。

4  なお、被告は、本件で排液の混濁が認められたのは本件カテーテル処置の二四時間後であるから、右処置を本件腹膜炎の原因と考えることはできず、本件腹膜炎は、亡直樹のバッグ交換時における感染が原因であると主張するが、腹膜炎における腹痛と排液の混濁との前後関係については、絶対に混濁が先行しなければならないというものではなく、感染後排液が混濁するまでに要する時間についても、感染した時点での細菌の量や感染後の細菌の繁殖環境にも左右されるため、感染から六時間前後で必ず排液の混濁が生じるというものでもない(現に、証人寺岡と同平野との間では、感染後排液が混濁するまでに要する時間等については見解の相異が認められる。)。加えて、バッグ交換による感染だとすると、緑膿菌を起炎菌とする本件カテーテル感染は、昭和六一年九月三日以降遷延していたのであるから、亡直樹のバッグ交換が不適切に行われた場合には、もっと早い時期に緑膿菌を起炎菌とする腹膜炎が発生していたはずであり、前記のとおり、昭和六一年一一月一九日夜から二〇日昼にかけてなされたバッグ交換の際に、たまたま不適切な方法で行われたものがあったというのは、いささか偶然に過ぎるし、これを認めるに足りる証拠もないことを考慮すると、被告の右主張を採用することはできない。

四  本件カテーテル処置に関する過失の有無(争点4)について

右三のとおり、吉野医師によるカテーテル損傷の結果として本件腹膜炎が発症したものと認められるところ、本件カテーテル感染症が遷延しており、しかもその起炎菌が緑膿菌であることも判明していたのであるから、カテーテルの損傷により緑膿菌が身体に侵入する危険性があったことは容易に予見できたものといえ、吉野医師のカテーテル損傷行為は、医師としてカテーテル処置をする際に緑膿菌を身体に侵入させないようにする注意義務に違反する行為であることは明らかであって、過失であると評価できる。

しかしながら、本件カテーテル処置をCAPD室で実施したことについては、前記認定にかかる本件カテーテル処置の内容が格別困難ないし危険性を伴うものであるとは認め難いことに照らし、不適切であったとまではいえないし、直ちにカテーテル交換をしなかったことについても、後記のとおり、不合理な遅延があったとまではいえないから、いずれの点についても、過失と評価することはできない。

なお、緑膿菌による腹膜炎が発症した場合、これによって死亡する可能性も否定できないのであるから、SEPの病名及び病態が昭和六一年一一月の時点で一般的でなかったとしても、そのことが過失の要素としての予見可能性を否定することにはならない。

五  本件腹膜炎の治療に関する過失の有無(争点5)について

1  前記認定の事実、《証拠省略》によれば、次の事実を認めることができる。

(一) CAPDの排液の混濁は腹膜炎の確定診断において重要な要素であること、中央病院において排液の混濁を明確に確認してから亡直樹が入院するまでの時間は三時間程度であったこと、本件腹膜炎による腹痛は、昭和六一年一一月一九日の夜から継続していたものであり、その間において亡直樹が重篤な事態に陥った形跡は見当たらないこと、入院した日の翌日である同月二一日には、一般病棟の大部屋に移動していること、本件腹膜炎は、緑膿菌を起炎菌とするものであって、難治性腹膜炎に分類されるものであり、カテーテル抜去が原則とされ、現実にも、昭和六二年一月一四日にカテーテル抜去をした後の同月二六日に治癒していること

(二) 腹腔内洗浄については、現在、その効果について疑問視する見解があり、当時においても、透析液による頻回の洗浄は効果的でなく、過度の洗浄はIgG(免疫グロブリンG・血清蛋白である免疫グロブリンの一つで感染防御に重要な役割を演じている。)のオプソニン(細菌などの表面に結合し、食細胞の貪食を受けやすくする血清抗体であり、感染初期の重要な防禦反応物質)効果を減弱する可能性があることから行うべきではないとする見解もあったこと、亡直樹の場合、腹腔内洗浄としては、透析液による一日六回(四時間ごと)の洗浄のほかに、生理的食塩水による一日六ないし一二回の洗浄を実施していること

(三) カテーテル交換は、昭和六一年一一月二七日に行われたが、その後においても、腹痛や排液の混濁、発熱などといった腹膜炎の諸症状が継続しており、本件腹膜炎が右カテーテル交換によって有意的に軽快したとはいえないこと

(四) 抗生物質の使用については、腹膜炎の初期治療としてセフメタゾンを当初投与していたが、昭和六一年一一月二二日からはペントシリン、ミノマイシン、同月二七日からは緑膿菌に効果があるトブラシンを投与していること

2  以上の事実を前提に、本件腹膜炎に対する治療の当否について検討するに、まず入院させた時期については、亡直樹が昭和六一年一一月二〇日午後〇時四〇分ころに来院した時点で入院させることも考えられなくはないが、その時点ではいまだ排液の混濁が確認されていない以上、それが明確に確認できた再度の来院時に診断の上、その三時間ほど後に入院させたことをもって、不合理な遅延があったとはいえないし、次に腹腔内洗浄についても、当時の腹腔内洗浄に対する否定的見解や、生理的食塩水による洗浄がなされていたことなどからすると、当時亡直樹に対してなされた腹腔内洗浄治療が不十分であったとはいえない。また、カテーテル交換については、同月二七日に右交換が実施された後の本件腹膜炎の症状の経緯からすると、不合理な遅延があったとはいえないし、さらに抗生物質の投与については、緑膿菌に対して一定の効果を有するものが複数投与されており、不適切であったとまではいえないというべきであるから、これらの吉野医師の措置ないし判断が不適切であったということはできない。

しかしながら、カテーテル抜去については、難治性腹膜炎の治療はカテーテル抜去が原則とされており、昭和六二年一月一四日になされたカテーテル抜去後の同月二六日には本件腹膜炎院が軽快治癒していること、カテーテル抜去直後に、血液透析において亡直樹が重篤な事態に陥った形跡は見当たらないことなどを考慮すると、カテーテル抜去の判断が遅れたことについて、不適切な点があったといわざるを得ず、また、これによって本件腹膜炎の治癒が遅れたことにより、本件腹膜炎が遷延したということができる。

3  したがって、カテーテル抜去の遅れについては、吉野医師の判断において不適切な点があったから、これにより本件腹膜炎が遷延したといえるところ、吉野医師がより早期に抜去を実施しなかった判断(又は不作為)は、腹膜炎の治療を担当する医師として当該腹膜炎を遷延させないようにする注意義務に違反するものであって、過失であると評価できる(以下、前記四の過失と併せて「本件過失」という。)。

なお、緑膿菌による腹膜炎が遷延した場合、これによって死亡する可能性も否定できないのであるから、SEPの病名及び病態が昭和六一年一一月の時点で一般的でなかったとしても、そのことが過失の要素としての予見可能性を否定することにはならない。

六  本件カテーテル感染の治療に関する過失の有無(争点6)について

1  《証拠省略》によれば、昭和六一年九月三日から同年一一月一八日までの間の本件カテーテル感染の治療経過について、次の事実を認めることができる。

(一) 九月三日に、カテーテル出口部付近に発赤と排膿、圧痛がみられたが、これは同月一八日ころまでには軽快した。

また、同月二二日ころから再び発赤、排膿、圧痛がみられるようになったが、これは一〇月一六日ころまでには軽快した。

一一月一四日ころから、出血と排膿がみられるようになり、同月一九日まで続いた。

(二) 右症状に対しては、経過を観察しながら、抗生物質であるケフラールが断続的に投与された。

2  以上の事実について検討するに、証人寺岡及び同平野によれば、カテーテル感染症がCAPD治療においてはある程度避けられないこと、しかもその起炎菌が緑膿菌であるという難治性の感染症であること、カテーテル感染は、表面的に肉眼で観察しただけでは、感染部位が出口部付近に局限したものか、あるいは第二カフ付近にまで及んでいるものか、さらに、第一カフ方向に向かって深部の方に及んでいるものなのか、すなわち、出口部で排出される膿が、出口部付近で生じているのか、第二カフ付近あるいはそれより深部で生じたものが出口部にしみ出してきているのかについて判断するのは困難であること、したがって、出口部からの排膿が一時的におさまった場合に、肉眼的観察による限り、出口部付近における感染がいったん完治したのか、または深部における感染が遷延しているものの治療に効果があって一時的に排膿がおさまっているのかについて判断するのは困難であること、カテーテル感染がいったん治癒して再燃する場合には、起炎菌が交代している可能性もあること、カテーテル感染の遷延自体は、直ちにCAPD治療を受ける者の生命を危険にさらすものではないことなどの医学的知見が認められ、そのような事情に照らすと、昭和六一年九月三日から同年一一月一八日までの間に、本件カテーテル感染について、吉野医師が経過を見ながら治療をすることとし、アンルーフィングや出口部変更術を実施しなかったり、カテーテル交換をしなかったこと、あるいは、緑膿菌に対して必ずしも効果が期待できない抗生物質であるケフラールの投与を経過観察しつつ開始したり中止したりしたことが、その後のカテーテル感染の遷延に大きな影響を与えたものと認めることはできず、吉野医師の右治療について不適切な点があったとまではいうことはできない(なお、右の期間における本件カテーテル感染症に対する吉野医師の措置ないし判断において、仮に適切でない点が認められたとしても、前記四及び五のとおりの本件過失が吉野医師に認められる本件においては、右の点が本件過失と独立して独自の過失を構成するものとはいえない。)。

七  本件過失と亡直樹の昭和六一年一一月二〇日以降の入院及びその死亡との因果関係の有無(争点7)について

1  SEPの病態、SEPに対する本件腹膜炎の影響及び本件腹膜炎の原因は前記一ないし三のとおりであるから、本件過失の内容が前記のとおりであることにかんがみれば、本件過失と亡直樹の昭和六一年一一月二〇日以降の入院及び昭和六二年九月二七日の死亡との間に相当因果関係を認めることができる。

2  なお、本件では、亡直樹が、本件過失による本件腹膜炎に罹患しなかった場合、どのくらいの期間生存し得たかについてはなお不確定な要素があるが、そのことは損害の額の算定に当たって考慮すべき事情であって、右不確定な要素があるからといって右因果関係が否定されるわけではないものというべきである。

また、前記第二の一並びに第五の一及び二によれば、本件においては、本件腹膜炎のほかに、CAPDによる治療期間、CAPDの透析液の組成及び濃度、βブロッカー剤の使用、亡直樹が過去に罹患した結核性腹膜炎などが、本件腹膜炎と一体となって、亡直樹が罹患したSEPの因子となった可能性は否定できないが、前記説示のとおり本件腹膜炎がSEPの発症又は進行の原因となったことが推認できる本件においては、右のような可能性は、損害の額の算定に当たって考慮すべき事情となり得るとしても、右因果関係を否定する事情とはならない。

八  被告の負担すべき損害の額(争点8)について

1  被告の責任原因について

前記第二の一1(二)のとおり、吉野医師は中央病院の勤務医師であるから、同病院を設置して管理する被告は、吉野医師の使用者として、民法七一五条により、本件過失によって発生した損害を賠償する責任がある。

2  本件過失と因果関係のある損害の内容及びその額について(なお、認定に用いた証拠は括弧内に掲記した。)

(一) 休業損害 二九〇万円

亡直樹は、家業の電気商を原告ら両親や二人の兄とともに営んでいたものであり、平均月収は約二九万円であった。そして、本件腹膜炎のため昭和六一年一一月二〇日に入院後、昭和六二年九月二七日に死亡するまでの約一〇か月の間(ただし、同年七月四日から同月一八日までの約二週間は一時的に退院している。)、本件腹膜炎及びSEPの治療のために入院生活を続け、その間は右家業に就くことができなかった。

したがって、その間の休業損害は、少なくとも二九〇万円を下らないものと認められる。

(二) 死亡による逸失利益 三五八八万七五〇〇円

亡直樹は、死亡当時三〇歳の男子であり、平均月収は二九万円であった(なお、原告らは逸失利益算定の基礎として賃金センサスの平均月収を主張するが、本件においては、右(一)で基礎とした原告の主張する現実の平均月収額を基礎とする。)。

そして、亡直樹が六七歳まで就労可能とすると、就労可能年数は三七年となる(なお、亡直樹が罹患したSEPの予後は極めて悪いものであることが認められるが、人の余命は軽々に予測できるものではないし、患者の年齢や症状、患者の置かれている治療条件、生活環境、さらには将来の医学の進歩等によって左右されることも否定できないから、SEP患者である亡直樹の余命を統計上のデータや臨床例から判断することには疑問があるというべきである(しかも、SEP患者の生存期間等については、統計的なデータもない。)。したがって、亡直樹が本件腹膜炎に罹患しなかった場合の具体的生存期間について特段の立証がない本件においては、簡易生命表に基づく平均余命を前提に、就労可能な年齢を定めるのが相当である。)。

以上の事実を前提に、生活費控除率を五〇パーセント、中間利息控除係数を新ホフマン係数(二〇・六二五)として、その逸失利益を計算すると、三五八八万七五〇〇円となる。

(計算式)290,000×12×20.625×0.5=35,887,500

(三) 墳墓・葬祭費用 一〇〇万円

右費用としては、各自五〇万円ずつの合計一〇〇万円が相当であると認める。

(四) 慰謝料 二〇〇〇万円

亡直樹の年齢、治療経過その他本件にあらわれた一切の事情(なお、吉野医師が亡直樹や原告らに対して不遜な態度をとっていたことを認めるに足りる証拠はない。)を考慮すると、亡直樹固有の慰謝料としては一八〇〇万円、原告ら固有の慰謝料としては各自一〇〇万円ずつが相当であると認める。

(五) 弁護士費用

後記3において検討する。

3  被告が負担すべき損害額について

(一) 前記のとおり本件過失と亡直樹の入院及び死亡との間に因果関係があるとしても、本件過失によって発生した損害のうちのいかなる範囲の損害について被告がその賠償の責任を負うべきかという点については、損害賠償制度における究極の理念である「損害の公平な負担」という見地から、社会通念を基礎として、検討されるべきである。

(二) そこで、右の見地から、被告が負担すべき損害の範囲について検討するに、前記のとおり、亡直樹は昭和五八年一一月から昭和六二年一月までの約三年間にわたってCAPD治療を継続し、昭和五七年には結核性腹膜炎に罹患しており、また高血圧症の治療として投与されていた降圧剤の中にはβブロッカー剤が含まれていたことなどが、本件過失により発症した本件腹膜炎と一緒になってSEPを発症又は進行させた可能性も否定できないこと、SEPの予後は極めて悪く、亡直樹が本件腹膜炎に罹患しなかった場合にどのくらいの期間生存し得たかということについては不確定な要素があること、前記のような亡直樹の既往歴(慢性腎不全や消化管出血など)が亡直樹の全身状態をある程度悪化させていたと考えられ、このことがSEPによる死亡への転帰の経過に悪影響を与えていた可能性も否定できないことなどの事情を考慮すると、本件過失に基因して発生した全損害のうち五割の限度で被告がその損害の賠償の責任を負うべきものであると認めるのが相当である。

そうすると、右2において検討した損害額の合計額(五九七八万七五〇〇円)に右割合としての五割を乗じた金額である二九八九万三七五〇円と本件訴訟追行のために要した弁護士費用として相当と認められる三〇〇万円との合計三二八九万三七五〇円が、被告の負担すべき損害額であると認められる。

4  したがって、本件において原告らが被告に対して損害賠償として請求し得る金額は、それぞれ一六四四万六八七五円となる。

第六結語

以上によれば、原告らの本訴請求は、不法行為に基づく損害賠償金としてそれぞれ金一六四四万六八七五円及びこれに対する昭和六二年九月二七日から支払済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余は失当であるからこれをいずれも棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法六一条、六四条本文、六五条一項本文を、仮執行宣言について同法二五九条一項をそれぞれ適用し、なお仮執行免脱の宣言については、相当ではないからこれを付さないこととして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 内藤紘二 裁判官 一谷好文 三島琢)

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